小林えみのブログ

本の紹介やその周辺、社会のこと

名付けられていなかったもの、奪われた言葉、失われた文体

山内尚さんの『ノンバイナリースタイルブック』の展示最終日に、山内さんと、『シミズくんとヤマウチくん』の共著者である清水えす子さんがマルジナリア書店にお越しくださった。お二人はとても丁寧にお越し下さった方たちとお話しになられ、私もとても良い時間を過ごさせて頂いた。お越しになられる方たちとのお話に、私もすこし混ぜて、「生き延びましょう」が毎回それとなく合言葉のように繰り返されたことが印象的だった。

 

私は1978年(昭和53年)生まれで、「性同一性障害」「トランスジェンダー」「Xジェンダー」「ノンバイナリー」、これらの言葉は私が物心ついてから、広く膾炙されるようになった言葉だ。私自身が男女二元論を主とする社会・周囲の環境に育っており、生まれつき自然に、ジェンダーそのほかに対して多様性に寛容な考えを備えていたわけではない。

名付けられていなかったもの、それらは例えばメディアの中で「特殊なもの」として、時には「笑いの対象」でさえあった。

名付けられず、しかし現状のカテゴリに違和感がある場合の苦しみは、本当に深いものである、と今の私は考えることができる。ただ、考えることができる、これを「理解している」とは安易に言いたくはない。

 

言葉は、先に奪われている。まず、名指されていないことで、元となる足場はぐらついている。

そして言葉に詰まるたびに「頭が悪い」と言われる。あるいは「理論的ではない」「論旨が破綻している」。

私たちは、最初から破綻している、そこから出発しているのに、どうして整合性が紡げよう?

一方で「エモ」にも嵌まれない。感情の、ある種のノリやパターンに乗せると、それはその同調者には上手く響く。たとえば政治的なアジテーション。けれど、そのパターン化した掛け声、「あらゆる差別に反対します」、それは記号として同士は見つけられるかもしれないけれど、意味や実効性を失ってはいないか。

そうして、口をつぐむようになる。

言葉をいったん封じると、言葉が必要な時にでてこなくなる。

 

書くことが好きだったころは「自分らしい言葉のならび」、文体があった。ただ、言葉が奪われ、自ら封じていくうちに、文体も失われていった。

こうして書いていても、書く言葉は私の身体性から剝がされており、書くことは苦痛だ。

 

今日お会いした方々、「ノンバイナリー」の展示に心寄せて下さった方々と、小さな声、あるいはおずおずとしたトーン、遠慮がちな話しぶりで、交わした言葉の数々を思い出す。

私たちは、立場を名付けられておらず、既存の型からはみ出すことで言葉を奪われ、遠慮することで文体は失われていた。

そうしたなかで、才能と勇気をもって、言葉や絵で表現を開いていき、名付けに身体を与えていった山内尚さん、清水えす子さんの成果である2冊の書籍に、心からの敬意をささげる。

押し込められた私たちが心の底から笑い、自らの文体で話せるようになるのは、いつだろう。

わからないけれど、それまで、合言葉は「生き延びましょう」。

生きていることはずっと苦しい。

でも、愛らしいもの、美しいものもある。たまには楽しい。

生き延びたその先に、私たちの言葉はあるはずだと信じて、「生き延びましょう」。