小林えみのブログ

本の紹介やその周辺、社会のこと

名付けられていなかったもの、奪われた言葉、失われた文体

山内尚さんの『ノンバイナリースタイルブック』の展示最終日に、山内さんと、『シミズくんとヤマウチくん』の共著者である清水えす子さんがマルジナリア書店にお越しくださった。お二人はとても丁寧にお越し下さった方たちとお話しになられ、私もとても良い時間を過ごさせて頂いた。お越しになられる方たちとのお話に、私もすこし混ぜて、「生き延びましょう」が毎回それとなく合言葉のように繰り返されたことが印象的だった。

 

私は1978年(昭和53年)生まれで、「性同一性障害」「トランスジェンダー」「Xジェンダー」「ノンバイナリー」、これらの言葉は私が物心ついてから、広く膾炙されるようになった言葉だ。私自身が男女二元論を主とする社会・周囲の環境に育っており、生まれつき自然に、ジェンダーそのほかに対して多様性に寛容な考えを備えていたわけではない。

名付けられていなかったもの、それらは例えばメディアの中で「特殊なもの」として、時には「笑いの対象」でさえあった。

名付けられず、しかし現状のカテゴリに違和感がある場合の苦しみは、本当に深いものである、と今の私は考えることができる。ただ、考えることができる、これを「理解している」とは安易に言いたくはない。

 

言葉は、先に奪われている。まず、名指されていないことで、元となる足場はぐらついている。

そして言葉に詰まるたびに「頭が悪い」と言われる。あるいは「理論的ではない」「論旨が破綻している」。

私たちは、最初から破綻している、そこから出発しているのに、どうして整合性が紡げよう?

一方で「エモ」にも嵌まれない。感情の、ある種のノリやパターンに乗せると、それはその同調者には上手く響く。たとえば政治的なアジテーション。けれど、そのパターン化した掛け声、「あらゆる差別に反対します」、それは記号として同士は見つけられるかもしれないけれど、意味や実効性を失ってはいないか。

そうして、口をつぐむようになる。

言葉をいったん封じると、言葉が必要な時にでてこなくなる。

 

書くことが好きだったころは「自分らしい言葉のならび」、文体があった。ただ、言葉が奪われ、自ら封じていくうちに、文体も失われていった。

こうして書いていても、書く言葉は私の身体性から剝がされており、書くことは苦痛だ。

 

今日お会いした方々、「ノンバイナリー」の展示に心寄せて下さった方々と、小さな声、あるいはおずおずとしたトーン、遠慮がちな話しぶりで、交わした言葉の数々を思い出す。

私たちは、立場を名付けられておらず、既存の型からはみ出すことで言葉を奪われ、遠慮することで文体は失われていた。

そうしたなかで、才能と勇気をもって、言葉や絵で表現を開いていき、名付けに身体を与えていった山内尚さん、清水えす子さんの成果である2冊の書籍に、心からの敬意をささげる。

押し込められた私たちが心の底から笑い、自らの文体で話せるようになるのは、いつだろう。

わからないけれど、それまで、合言葉は「生き延びましょう」。

生きていることはずっと苦しい。

でも、愛らしいもの、美しいものもある。たまには楽しい。

生き延びたその先に、私たちの言葉はあるはずだと信じて、「生き延びましょう」。

 

 

 

「出版産業・書籍関係業界全体」と「複本問題という一部の出版社のキャンペーン」

 想像力は力だ。将棋棋士藤井聡太さんによる、長い歴史の検討を超えた思わぬ一手が人を惹きつける。それは私たちが今と違う未来を想像できることをおしえてくれる。

 一九九六年をピークに、出版販売額の右肩下がりはずっと続いている(『出版指標 年報 2020年版』参照)。
 しかし、その中でも売り伸ばしている分野もある。ひとつは電子書籍。そして児童書は出版全体の中での比率は高くはないものの売上を伸ばしてきている。また、単体で売れるコンテンツが、コミックはいくつもあるし、他分野でも近年では『君たちはどう生きるか』や『サピエンス全史』などはビッグヒットを記録した。旧来の制作販売流通の仕組み上での業界全体の出版不況はあるが、仕組みの転換やコンテンツの見極めでまだ本は売れる状況ということだ。ただ、会社単位などで元気なところはあったとしても、業界全体のマイナスをまた盛り返せるか、というと、「日本語を母語とする人口減少のトレンド」や「趣味の多様化」などを考えれば、難しいと言わざるを得ない(他言語の展開が本格化すれば、まだ可能性はあるかもしれない)。
 ただ、私は出版業界の「経済成長(全盛期への回復)」に興味はないし、それでも出版の明るい未来は描けると思っている。
 本が買われなくても読まれ続けるのであれば、それが一番大事なことだ。

 とはいえ、本が何の準備もなくまったく売れなくなると困る人が大勢いるし、「売れなくてよい/売らなくてよい」ということではない。「経済成長は不要」は「経済活動ゼロへ」とは異なる。
 現状の出版業界の一番のボトルネックは、流通コストだ。これに関連して日本出版販売(日販)の社長・奥村景二氏が日販通信noteのインタビュー(二〇二〇年九月四日、インタビュー諸山誠氏)で、コストの適正化を計画していくと同時に「消費者にとって「安い」のは好ましいことですが、本に限って言えば別次元の話です」と本の価格帯をあげることを提案している。
 私も基本的にこの提案には賛成だ。薄利多売でも、版元や著者は数がまとまれば多額の収益化をはかることができるが、各小売店、特に都市部ではない地域の書店においては「多売」の限界がある。単価だけをみれば一リットルの牛乳がコンビニで二〇〇円なのは本より安いが、そうした消耗品は今日買った人が明日も買う、一人が複数回の購入をする。まったく同じ四四〇円のコミックを熱心なファン以外が複数冊買うことは稀だ。
 「現状の仕組みの中で」きちんと小売店の現場、その人件費を支えるのであれば、単価はあげていくべきだ。もちろん、それで部数が下がるものもでてくるかもしれないが、「そこで選ばれる書籍であるかどうか」は良質なコンテンツをつくることにつながり、粗製乱造の抑止にもなるはずだ。
 しかし、その場合の問題として「高い本を買える人の書籍の選択肢が増え、買えない人の選択肢が減る」可能性がでてくる。
 私は、どんな環境にいるだれでも自由に情報へアクセスできることが望ましいと考える。もっとコンテンツを経済中心の仕組みから公共に開放することが必要だ。
 公共的(パブリック)な出版(パブリッシング)は可能なはず。
 色々な方面から出版の公共を考えることはできるが、今回取り上げる大きな鍵はすでにパブリックな存在である公共図書館だ。

 商業出版の歴史は、決して長くはない。一般的に、グーテンベルグ活版印刷技術の普及以降、多くの人が本を個人所有することが可能になり、本を売り買いする仕事、本に書く仕事が発展した。いまのあり方は、人類にとって変えてはならない前提ではなく、時代や技術に応じて変化するものだ。
 いま、漫画は多くの電子プラットホームで無償公開されている。期間限定で全話、最新話だけなど公開の幅や上限は異なるが、手塚治虫の時代なら考えられないことだろう。そのうえで個別や読み放題サブスクリプションなど有償で利益をあげ、著者には支払いがされている(個別の契約条件の問題は存在するかもしれないが、全面的な無償労働を前提とした仕組みではない、という意味で)。そのように、商業圏の中においてもコンテンツが有償か無償かは、扱う仕組みの問題でしかない。
 一方、図書館は本を利用社に対して売るという仕組みとは直接的には関わらない、無償のコンテンツ提供の一番大きなプラットホーム、公共施設だ。図書館がさらに本と親しむ場として存在感を増すことができれば、経済格差によるコンテンツへのアクセス格差をなくすことができる。

 しかし、図書館が無償で本を読める場であることに対して、版元からは折に触れて苦情が申し立てられてきた。近年では二〇一五年の全国図書館大会で新潮社社長の佐藤隆信氏が複本について、二〇一七年の同会で文芸春秋社長の松井清人社長が文庫について、いずれも「図書館での貸し出しが本の販売の阻害となる」という主旨の発言をしている。関連の松井清人氏のインタビューでの発言「あの発言で本当にお伝えしたかったのは、「読書のマインド」です。本は基本的に本屋さんで買うものという意識です。」(弁護士ドットコム二〇一七年一〇月二七日)には反対だ。それは「基本的」なことではなく、「今の仕組み」上の必要に応じた話でしかない。

 しかし、いかに版元が既存の販売の仕組みを護持しようとしていても、社会や技術が変わっていく中で、それは変わっていかざるを得ない。
 著作権については、著作権を保持したまま作品を自由に流通させることができるクリエイティブ公共ズという仕組みがある。
 既存の商業出版のルートではない同人誌やZINEの市場も、コロナ禍等で二〇二〇年は少し停滞気味ではあるものの、数年のトレンドのなかでは活気を呈している。
 今のところ動きは目立たないが、電子書籍も著者がダイレクトに読者へ自分の著作物を届けることができる。
 商業出版の枠組みを揺るがすのは図書館だけではないし、それは出版文化の衰退とはイコールではなく、むしろ多様なあり方に開かれているのだ。
 コンテンツはもっと軽やかに読者の手に届こうとしている。

 図書館において、複本や文庫は紙の本の関連トピックだが、デジタルの書籍の扱いについても進行している(電子書籍の取り扱い、複写サービスの送信など)。もちろん、それもあまり版元から歓迎されているとは言い難い。
 図書館の電子化は、かねてより進行してきたことだが、決してスピード感のある動きではなかった。しかし、コロナ禍によって、人や物の接触を減らす動きの中で、電子書籍や電子化された資料の貸し出しは急激に社会のニーズとなった。現状、郵送か手渡しの複写サービスを公衆送信に対応させる著作権法三一条一項一号の法改正が実現すれば、利用者は電子的に一般的な本の一部を入手できるようになる。これに関しては無限定ではないし(入手困難本と扱いをわけている)、市場への配慮した担保や権利者へ補償金の制度が予定はされている(二〇二〇年一一月執筆現在)。

 ここからは、少し空想的な発想であることをお許しいただきたい。私は、コンテンツはある程度の関係者の生活保証程度の経済活動が担えれば、より多くの利益を確保する必要はないと考えている。コンテンツは私的に生まれたものかもしれないが、それは人類の共通財産として、広く読まれるために開放されるべきだ(ただし、著作人格権は現在と同じように、財産権より強い権利は主張されてよいだろう)。
 ただ、新潮社の佐藤氏の発言が「著者からの声が強く、放置できないほどになっている」というように(『新文化』二〇一五年一一月一一日)、この発言を鵜呑みにするわけではないが、経済的インセンティブが著者にとって大事なモチベーションとなることは理解できる。
 しかし、宮沢賢治カフカ、歴史的な著作を残した書き手が、必ずしも書くことで経済的に豊かになったわけではない。それはそれで問題だが、彼らは儲かるから書いたわけではない。彼らだけに限らず、版元として、現在、著者から「本をできるだけ安く作ってほしい」と言われることが少なくない。理由は「その方が読者が買いやすいから」。安くても多く売った方が利益が出る場合もあるが、この場合の発言は、「その方が多くの人に読まれるから」であろう。経済が回らなければ文化が停滞する、ということはない。書きたい人は書きたいから書く。
 しかし、私自身が版元という立場で本をつくることで生計をたてており、多くの関係者(デザイナーや印刷所など)に支払をして、ようやく本を世にだしている。社会全体が保障の薄い新自由主義的な状況であり、その中で公共の利益のために、出版においてだけ理想的な公共理念を重視して著者や関係者に有利ではない条件を押し付けて、やりがい搾取をすることになってはいけない。また、利用者もただ本が読めれば良いということではなく、本を個人所有する楽しみもあるだろう。急激な改革ではなく、ゆるやかに、現在の出版不況からスライドする形で、経済的には、権利者に対して一定の補償や諸制度でのケアは担保しつつ、ゆるやかに公共へ開かれていくことが望ましい。版元の機能、編集や販促・営業の業務自体もなくなるのではなく、著者のエージェント業や図書館の選書機能などに変わっていくことはできる。変化を、違う未来を想像することを恐れてはいけない。

 現状の出版産業の枠組みの未来は明るくはない。
 しかし、新たなコンテンツが生まれること、出版という営みが形を変えていきつつも人類に美しい何かをもたらす可能性はまだ広く開かれている。一見、奇手にみえるかもしれない新しい一手の創造が、より良い世界をつくっていく。
 私たちは、まだこれから本で、出版で、わくわくすることができる。

 

※本稿は2020/12/25刊行の『早稲田文学 2020年冬号』へ寄稿した「コモンでつくる出版の未来」を改題、ごく一部の語を変更して掲載

早稲田文学 24号 2020年冬 第十次 | NDLサーチ | 国立国会図書館

 

「セーファースペース」と名乗るかどうか カタカナ語へのためらい

「マルジナリア書店はセーファースペースですよね」

とお客様に何度かお話の中でお尋ね頂きました。

 

セーファースペースとは「差別や抑圧、あるいはハラスメントや暴力といった問題を、可能な限り最小化するためのアイディアの一つで「より安全な空間」を作る試みのことを指す。
堅田香緒里『生きるためのフェミニズム パンと薔薇の反資本主義』タバブックス、2021年

 

ポイントは「安全な(safe)」ではなく「より安全な(safer)」を指す、ということです。(文章は要約していますが、意味の出展は、堅田香緒里「セーファースペースとは」『セーファースペース』タバブックス、2023年、です)

 

マルジナリア書店でも準じるような取り組みや姿勢を前提としており、意図は全面的に賛成です。また、そうして「セーファースペース」を名乗って活動されている皆さんを尊敬しています。
そこへ水を差すようなことは避けたいと考え、明言を避けてきたのですが、最近、冒頭のような問いかけを頂くことが続き、悩んだのですが、自分の考えを表明するために本稿を書いています。

 

今回の「セーファースペース」に限らないことですが、リベラルな用語が「カタカナ語のまま輸入されること」への抵抗がありました。
まず、私自身、「safer」「space」という英単語を知っていましたが「safer space」という意味は上記を読むまでわからず、そして今も「より」というニュアンスを「体感」できてはいません。

私は日本語を母語としていて、その他の言語はネイティブに準じるほど使えるものはありません。英語も「知っている単語」と「知っている文法」を組み合わせて「なんとなくの読み書き」はできますが、ネイティブから見たらおかしな和製英語があったとしても、それに違和感をもてるほどの習熟をしていません。

これは私の個人的な状況ですが、いまだ多くの日本出生者は同じような感覚であろうと思います。

世界ではどんどん英語がリンガフランカ母語が異なる人々の中で共通語として使われる言語)として発達しています。日本も英語教育にますます力をいれており、昭和生まれ(1978年生まれ)の私とは、今の中高生、またこれからの子たちは私とは違う言語感覚でしょう。そして、日本語はやがて消滅すると思います。

【日本語が「消滅の危機」にある理由、世界で9番目に話されているのになぜ?
山口仲美:埼玉大学名誉教授】https://diamond.jp/articles/-/328344

私は、消滅自体を止めたい、という気持ちは強くありません(残念ではありますが)。また、現在の「日本語」も韓国や中国を中心にさまざまな国の言葉を輸入して出来た言葉であり、一切のカタカナ語や輸入語を排除したい、とは思いません。

それでも、ここでそのことを指摘する意味は2点あります。

①誰にとってのセーファースペースという言葉か

②(消滅が見えていたとしても)言語や文化の多様性も志向しているのがリベラルではないか

 

①誰にとってのセーファースペースという言葉か

私自身のこととして書きましたが、以前、多くの日本出生・在住者が日本語以外を流暢に話す、ということではない状況だと思います。そのときに、結局、「知っている人だけの隠語」的になってしまうカタカナ語に、意味があるでしょうか。

いま、日本で日本語話者のマイノリティへ向けて発信するのに、カタカナ語は障壁とならないでしょうか。

もちろん、英語の方が通じる場合もあるでしょう。それであれば、( )で補えばよいし、「日本語話者以外も大勢いる」ということに関しては、カタカナ語を使う理由にはなりません。それであれば、英語・中国語・韓国語・ポルトガル語スペイン語併記などの対応が考えられます。

 

②(消滅が見えていたとしても)言語や文化の多様性も志向しているのがリベラルではないか

リンガ・フランカ(としての英語)がもっと普及して、マイナー言語にわざわざ翻訳する必要はない、という立場であれば、見解の相違ということで、それ以上議論をすることはありません。ただ、「セーファー・スペース」という語などを推進する立場の人の多くは「文化の多様性」にも賛同をされるのではないでしょうか。

このことに関しては、私は多くの、リベラルな立場をとる日本人研究者の怠慢として糾弾(という強い言葉をあえて使います)したいと思います。

なおセーファー・スペースに関して、堅田氏の言葉を引用していますが、この語だけ・またお一人を対象としてのことではありません。そのひとつとして、近年、「ケア」という言葉が多用されています。この語についても「世話」ではダメなのか、という問いかけに「careという語に含まれる意味を”世話”は含有していない」と言われます。多くの研究者は、私(や多くの日本語話者)と比べて英語を流暢に使うことができ、元の語に対するリスペクトとして尊重する態度であることはわかります。それも必要なことだと思うのですが、それは、永遠に元の言語のゆらぎにふりまわされることになります。元の言語でも、言葉は変化していくものだからです。私たちは概念を、常に輸入し続けなければいけないのでしょうか。

また、私は版元も運営しており、人文系の書籍を刊行しているため、研究者の方たちから「この本を翻訳したい」というご相談を頂くこともあります。それは、もちろん良いことなのですが、この場合も、多くは肝心の主題となる語はカタカナ語のままということが少なくありません。研究者は何を翻訳し、日本に導入しようとしているのでしょうか。

「哲学」という言葉は、西周が翻訳をし、現在日本語として定着しています。当時の社会と現在が違うところは、外国語と接する人数自体は多く、一部特権的に触れた人が翻訳をし、語を広める、という状況ではない点です。

現在は、マジョリティと言えるほど多数ではないとはいえ、日本出生者でもネイティブ同様に他言語を操れる人は少なくありません。そうした中で、研究者が先行的に事例や新語へ触れて「この語はこう訳したい」としても、別の流入口から語が流行ったり、反論があったり、明治・大正の頃より語の定着は格段に困難であることは確かです。また、ある一人の方が「こう訳す」としたときに他の研究者たちからの反論がくる(ありていに言うと訳語で揉める)ことも容易に予測できますし、研究者間だけで特権的に決めてほしい、ということではありません。それでも、私はそれは仕事として、勇気をもって取り組んで頂きたいことだと考えています。結果、その日本語が定着せず、一般に先に広がったカタカナ語になるとしても。私には、そうした「どのみち定着しない」「どのみち他のルートからカタカナ語が定着する」の前に、できるはずの仕事を放棄しているように見えます。

「業界のカタカナ語」を揶揄する冗談が、時々世間にでまわります。一番おもしろおかしく語られるのが、芸能界・広告業界でしょうか。また、売り場案内のカタカナ語が伝わらず、結局書き直される、ということも生じていたようです。

https://twitter.com/ro_ki_/status/953915189006540800

(2018年1月18日午後6:01の投稿、文房具店ロフトの売り場案内で「ホームソリューション」が「生活雑貨のフロア」などと書き直されている)

こうした他愛のない事例や、先端の意識を競い合うような業界内のことをわざわざ非難したいとは思いません。先述したように、いずれ、日本語が消滅することを(私は)受け入れているからです。

しかし、下記のカタカナ語は、みなさんひとつずつ説明ができる、もしくは違いをイメージできるでしょうか。

バリアフリー
ユニバーサルデザイン
ダイバーシティ
ノーマライゼーション
インクルーシブ

いずれも福祉や教育をめぐる言葉です。

私はできませんでした。

これらは、もっと生活に定着し、弱い立場にある人たちを支え、私たちの社会・生活を豊かにする言葉・概念です。これらは「カタカナ語」が日本で概念を定着させることを阻んでいる一因である、と考えるのは大げさでしょうか。

だれの、何のための翻訳・カタカナ語でしょうか。

 

またいずれの別の稿にわけて詳述したいと思ってますが「すべての差別に反対する」という言葉も、理念として言いたいことはわかるのですが、現実的にはさまざまな相反する状況を含んでいます。それに対しての調停は必要となります(堅田香緒里「セーファースペースとは」『セーファースペース』タバブックス、2023年、6ページ、15-16行目)。

私たちは、概念の輸入とあわせて、その語の定着自体も取り組む、できうること、現実の調停としての、日本語化はなされるべきことのように思います。

 

繰り返しですが、すでに定着したカタカナ語をとりあげるようなことなどナショナリズムとして「カタカナ語を排除し日本語を死守せよ」ということではありません。

「より安全」を考え、まだドメスティックな問題を多く抱える日本社会を改善したい、という気持ちで翻訳をし、さまざまな多様・共生の社会・文化を目指すのであれば「カタカナ語」の輸入に関して、今一度留意して頂きたいのです。

 

 

最後に、それであれば、ということでの「safer space」の訳語を自分なりに作りました。

 

隣場(となりば・りんじょう、safer space)

 

読みは「となりば」としますが、音読みも可としています。また、表記する際は、元の語に配慮して「隣場(safer space)」と表示するようにします。

元の語の「安全」という意味や、ポイントである「より」というニュアンスをすべてくみ上げようとすると、直接的に対応する日本語はなく「より安全な場所」といった文章になってしまいます。その「すべてを汲む」「対応する」は、今までなかった語なわけですから、そもそもできないことなのです。先述の「哲学」も欧米の語へ直接的に対応している言葉ではありません。

「隣場」という漢字の先行使用例としては2020年の東京ビエンナーレで西原珉さんのプロジェクト「トナリバー」として使用されたことがあるようですが、「バー(bar)」も含意しておられ、今回の使用と重なる問題点はなさそうです。

https://tb2020.jp/news/tonari-bar/

この語が、今後、定着するかはわかりません。正直に言えば、あまり、高いとは思えていません。

それでも、私は、何もいわずにただ受け入れるのではなく、この地獄の社会を「より安全に」するこころざしは共にする者として、ここに提案をします。

それは

セーファースペースは、差別や暴力を最小化する空間を作る、あるいは作り続けていく、「終わりのないプロセス」である。(堅田香緒里「セーファースペースとは」『セーファースペース』タバブックス、2023年)

 

に賛同しているから、です。

 

 

冒頭のお客様の問い。

今後は「マルジナリア書店は『となりば』です」と答えます。

 

独立系書店・棚をめぐるメディアと書店業界の「女性」の扱い

イベントに登壇しました。
【『しししし5』(双子のライオン堂) 刊行記念 本屋は本屋の棚をどう見るか?トーク編】

『しししし5』に「本屋は本屋の棚をどう見るか?」という企画があり、その企画内記事4本がすべて男性であることから、トークイベントでは、まず「出版や書店の現場で女性は増えているが、経営者・幹部などになると女性の数が極端に減り、独立系書店なども決して数が少ないわけではないのに、メディアへの登場が極端に偏っている、ということを提議しました。

イベント中でもセキュリティについてなど、有意義な話もありましたが、実際の人数比以上に、メディアでの取り上げられ方の偏りについては、その場だけで現状への追及や改善ができることではないので、情報共有にとどまったように思います。

 

正規雇用か、正社員か、また店長等ポジションについているか、開業をしているか、出世のしにくさや開業のしにくさなどの問題もありますが、メディアの問題については、とりあげる側(報道、出版社、等)、また仲間同士で声をかけあって何かするときの書店の中での問題があることが明らかです。

 

よくあることとしては「実は声をかけていたけれど、断られた」です。

「女性の発言が批判をあびやすく、男性より前にでにくい」という日本社会自体の(くそったれな)構造はありますが、そこで断られても探す、ということが、書店員・書店主に関してはまだまだ可能であるのに、それがされていない、と感じます。

また、特徴ある書店・すでにメディアにでている著名な書店が限られており、そうしたところへ依頼が集中し、「断られる」⇒「それ以上探さない」ということもあるようです。

 

あきらかに、前提として女性が「いない/少ない」場所・分野もあります。
「日本このままじゃダメ」東大が女性教員を増やすわけ 林香里理事

https://digital.asahi.com/articles/ASQCY3S6GQCSUTIL02R.html

理学部の女子学生増へ、国立10大学が声明…東大や京大

https://resemom.jp/article/2023/05/26/72268.html

 

書店・出版等、書籍の関連業界も同じように全体の数もまだまだ十分ではありませんが、2024年現在、業界のなかで、もう少しできることはあります。

 

ほんとうに、その書店をめぐる話は「男性ばかり」でないとできませんか。

「個性的な書店」を集めたら、男性書店主のお店ばかりになりますか。

それは、ただ単に、あなたたちのリサーチ不足・企画の失敗ではありませんか。

 

『あの子もトランスジェンダーになった』刊行について

KADOKAWAで刊行が中止となった『あの子もトランスジェンダーになった』が産経新聞出版から刊行されることになったそうです。

https://www.sankei.com/article/20240305-KKZ57HKC2JGM7FNCO6BTPPCNHQ/

刊行の経緯が産経新聞で記事となっています。
「容易に性別変更できてしまう米国の実態が紹介されており、手術などで回復不可能なダメージに後悔する少女らを取材している。」とされていますが、その誤りについては、すでに米国での指摘されています。
KADOKAWA出版予定だった本の6つの問題。専門家は『あの子もトランスジェンダーになった』は誤情報に溢れていると指摘》

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_65792b28e4b0fca7ad228fef

そしてこちらには「だがそれよりなお恐ろしいのは、子どもの性自認を拒絶せよと親たちに説いていること。それこそがまさに、トランスジェンダーの子どもたちの自殺未遂の最大の予測因子の一つであるにもかかわらず。」
と、子どもたちの命の危険についても指摘がされています。

トランスジェンダーや性的マイノリティの死亡が有意に高頻度であることは証明されています。
トランスジェンダーは自殺死が多いか/JAMA

https://www.carenet.com/news/journal/carenet/56760

性的少数者の自殺リスクその背後にある「生きづらさ」とは

https://www.tokyo-jinken.or.jp/site/tokyojinken/tj-57-feature.html

【調査速報】10代LGBTQの48%が自殺念慮、14%が自殺未遂を過去1年で経験。全国調査と比較し、高校生の不登校経験は10倍にも。しかし、9割超が教職員・保護者に安心して相談できていない。

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000031.000047512.html

なお、これらに対して、ホルモン療法の方に原因があるとする意見も散見されますが、それらが誤情報であることもすでに指摘されています。
トランス女性へのホルモン療法で「メンタルヘルスが悪化する」は本当?原因を“単純化”する危うさ

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_64b8949de4b093f07cb2d76c

「ryuchellさんの死とホルモン治療についての誤情報」稲葉可奈子

https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=22471


ある論について反対の論が出るということ自体は、あり得ることであり、それが阻害されるべきではないことは民主主義の根幹です。
しかし、それはただ単純にどこでも、どういった形でも公表されうる、ということではありません。
トランスジェンダー差別の多くは、女性の男性社会への不信を、歪んだかたちで標的化し、はけ口にしています。
正確な情報を発信し、誤った情報で不安を感じる人たちに不安を解消する手を差し伸べることこそ、メディアがなすべきことではないでしょうか。
「虚偽情報にあふれている」ということがすでに指摘されている書籍を、あえて商業的に流通させることには、いたずらに人々の危機感をあおり、その危機感へ付け込む不安産業ではないでしょうか。
女性の分断をまねくトランスジェンダー差別、またそれをいたずらに商売とする行為は許しがたいものです。

トランスジェンダーを受け入れがたい、あなたたちの不安の根幹はほんとうにトランスジェンダーのことですか?

 

あしたは国際女性デーです。
すべての女性が幸せに生きていけることを願っています。

書店振興支援のニュースについて

2024年3月5日(火)読売新聞に下記の記事が掲載されました。
「書店振興プロジェクトチーム、斎藤経産相が設置表明…「創造性が育まれる文化の創造基盤」」

https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/articles/20240305-OYT1T50060/

 

支援があるってよさそう、と思われがちですが、実際の現場の意見は割れています。
私も現状、反対の立場です。


反対の意見をいくつか紹介します。
蟹ブックス・花田菜々子さん
「書籍の売上の10%を助成してくれればそれでいい!成功事例とかはみんなもう共有し合ってるから大丈夫。国が文化や芸術を助成するのは当然のことだと思うので日本でもぜひ実現してほしいが、しょうもないパンフとCM作って自民党が中抜きして終わりにならないか心配。」2024年3月6日午後0:43

https://twitter.com/hanadananako/status/1765221599526220075

青山ブックセンター・山下優さん
「書店が日々厳しくても国に頼るのは違う気が。 「優れた事例を共有し、支援策の参考にする。」立場や立地が異なるのにただ優れた事例を真似しても全く意味がないし、今の時点でそもそも真似というかそういう要素を自店なりに取り入れたり解釈できていないお店を残す意味もないと思う。」2024年3月5日午後10:27

https://twitter.com/YamaYu77/status/1765006253292650831

▼ポルベニールブックストアさん
「新刊書店が減った根本的原因は平均22%と言われる書店マージンの薄さに尽きるので、書籍販売の粗利改善に手を付けなかったら、何やったって小手先の対策に過ぎないの! あと活字文化を本気で守るなら、イギリスみたいに新聞・書籍に関する消費税をゼロするのが効果高いよ!」2024年3月6日午後2:44 · ツイート

https://twitter.com/porvenir_books1/status/1765252079839523158
▼すずきたけしさん
「うーん、物流やRFIDタグといった商流のインフラに支援したほうが良いと思う。」2024年3月6日午前11:52 以下、関連の4投稿

https://twitter.com/takesh_s/status/1765208922049446292
▼本屋lighthouse さん
「昨日あたりから話題になっている、政治による書店支援プロジェクトやらなんやらですが、支援の中身云々以前に「誰が主導しているか」を把握することがまず大事です。…以下略…」2024年3月6日

https://lighthouse226.substack.com/p/240324-30
それぞれ視点は異なりますが、「別のことが書店にとってありがたく、今回のような支援が喫緊の問題ではない」という認識が共通しています。
私もこれに同意です。


ニュースに関連して、一時、上場されている書店の株価もあがったようです。
書店の文教堂丸善CHI、トップカルチャーなどが10時過ぎ位から強く上げましたね。…以下略…」2024年3月5日午後1:58 ·

https://twitter.com/senri_toushi/status/1764878098582151405

 

書店減少に対して、なんらか対策があったほうがよい。
この前提は共有できる部分です。
しかし、実際に「現場」求められているニーズと合致しているのか。
経産省のチームはきちんとヒアリングをして頂きたいですし、このニュースをご覧になった本好きのみなさんが「本屋の支援いいね」とお感じになることはとても嬉しいのですが、実際に「本屋の支援になるのか」は、よく注視していただけると幸いです。

 

私の懸念点は大きく下記2点です。
①今のでている記事での内容だとコンサルやDXなど中間業の支援にしかならず、現場の支援にならないのではないか
②上記の一部業種、また書店も一部のみこまれたところへの利益にならないのではないか、またその際に「条件」をのまされるのではないか

 

①については、他の方からの指摘とも共通しています。

②については、まだ現状の記事からは判断しかねますが、いわゆる「毒まんじゅう」、一見魅力的だけれどその中にもっとリスクの高いことが含まれている、というケースを警戒しています。
太平洋戦争時の言論統制をおこなったとされる鈴木庫三を描いた『言論統制: 情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』中公新書、2004年 という書籍があります。
鈴木氏がさまざまな政策に関与したことは確かなのですが、人間ひとりの思惑や政策判断だけでできることは、実はそんなに多くありません。
物事がすすんでいくときには、そのことを内面化した様々な人や機関の協力がなければ、うまくいきません。それらに「忖度」したり、都合よく利用する者がいて成り立つことの方が多く、当時の「言論統制」もそのように成立したと思われます(だからといって、その旗振りが免罪されるということではありません)。

書店をもつ会社が、版元が、あるいは関係者が、今後どのように反応していくのか。

私はそこをよく見ていきたいと思います。

3月6日22:41追記
こんなことすでに書いていました。嫌な予感ほどよくあたる、というやつでしょうか。
「【街の本屋、日本では減り続けるが…韓国では支援充実で増加傾向】

https://www.yomiuri.co.jp/culture/20230510-OYT1T50322/?fbclid=IwAR21qv4LQg2k7QBDM9drt8U88K2QayiUIi5szdtPOFHwBtQRNrhTobggunw

こういう記事がでると「書店にも支援を」という話になると思いますが、個別の業種優遇ではなく、消費税減税をして国民全体の負担を減らしてもらったら書店も助かりますよ。政治家のみなさん、よろしくです。」2023年5月15日午後5:30 

https://twitter.com/marginaliaBS/status/1658027164535783425

社会の移行期間で見る『不適切にもほどがある!』2

以前、4話までをみて、下記、雑感をまとめていました。

社会の移行期間で見る『不適切にもほどがある!』 - 小林えみのブログ

引き続き、状況は同じで、視聴率は好調、一方で多くの批判があがっています。
SNSを中心に、目を通しており、大半は私も同意できます。ここで、「これは」「これは」とあげないのは、それらを「同意」としていても「批評の土台に勝手にさらす」ことはしたくないからです。

そのうえで、やはり私も面白く見ているし、高齢の方を中心に「もっと配慮必要なんですね」ということを無邪気に受け取られているお話をしています。

批判は同意しつつ、というと、超越的に私が「わかっている」側にたっているように書いてしまっていますが、主人公・昭和のダメおやじの小川市郎の言動側に自分を重ねることもあります。

#6の「昔話しちゃダメですか?」、若い人の話に被せ気味に自分の話をする、聞かれてもない昔話をする……。やってますね。

 

下記の記事に写真家の齋藤陽道さんがTwitterでポストをしていました。

アイナ・ジ・エンド「ちゃんと届けようと思うと、表情が勝手についてくる」新曲『宝者』MVで手話に挑戦 - TOKYO FM+

https://twitter.com/yohakushapub/status/1763714910159294864

たぶん、こういう消費を私はやりかねない。
だから注意をするし、何かをしてしまったらきちんと謝りたい(どのように謝ることが必要なのか?は、古田徹也『謝罪論』が参考になります)。

 

だれでも、被害者・加害者になりうるよ、マイノリティ・マジョリティどちらにもなりうるよ、というどっちもどっち論がしたいわけではありません(それはダメです)。

 

感情的になるな、というのも私は賛成しません。
むかつくことはもっと怒っていい。

 

むしろ、私たちは中途半端に遠慮して、理論をたてようとして、論破合戦になり、どちらが正しいかを競い、決着がつかずに疲れ果てている。

 

『不適切にもほどがある!』の見どころは、それぞれがまず率直に意見をだすことにあり、そこに世代間やさまざまなディスコミュニケーションを解消するポイントがあるのではないでしょうか。

 

コンプラわかんない」、わからない人はもっと言っていいと思います。
言われて怒る人は、もっと怒っていい。
(傷つけたり、過剰な負担をかけるほど言ったらダメですが…)

 

NHK日曜美術館」の「建築家・内藤廣 渋谷駅・世界一複雑な都市開発を率いる男」を見て、なんだか凄くイライラしました。

建築家・内藤廣 渋谷駅・世界一複雑な都市開発を率いる男 - 日曜美術館 - NHK

内藤氏が悪い方ではないのはわかるのだけれど、成功した高齢のマジョリティ男性たちが立派な会議室で渋谷を構想し、「多様性が」と口にすることに、嫌悪感を感じました。
それを「なんでも男性ってだけで気持ち悪いと言うな」という意見もでるでしょう。
さすがに私も「男性だけだから」で全部を否定するようなことはありません。
私は比較的言語を使って仕事をしている方ですが、それでもすべてをいきなり理路整然と言語化することはできません。
今回、なぜこんなにイラつきを感じたのか。
もちろん、ただ表明するだけではなく、自分でも考え続けますが、私が、あなたが、感じたこと自体は否定されるものではないのです。

 

そのバランスを取り続けながら、最善をさぐっていく。
これも、私はローティ・朱さんの哲学から学んだことのひとつです。

『NHK100分de名著 偶然性・アイロニー・連帯 (NHKテキスト)』朱喜哲 | マルジナ...