小林えみのブログ

本の紹介やその周辺、社会のこと

ゲ謎に描かれなかった大事な3つのこと

※※この文章では作品の描写(ネタバレ)に触れています。未視聴の方はその点ご了解の上、ご覧ください。※※

 

映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(以下、「ゲ謎」)が大ヒット上映中です(2023年12月現在)。

www.kitaro-tanjo.com


私はふだんあまり映画館へ映画を見に行くことがないのですが、水木しげる作品が好きで、作品はおおよそ見ているので、今回も公開早々に足を運びました。
水木しげるのコアなファンの方も大勢おられるので、そうした方々と比べると、熱心な、とまでは言い難い「子どもの頃から見続けていた」ぐらいのファンです)
作品のクオリティは素晴らしく、リピーターが多くいること、こうして作品がヒットしていることは納得できます。

ただ、そうして作品が、よくできているからこそ、ここに描かれていないことの大事さが段々気になってきました。
1つの作品に、ありとあらゆることを詰め込むことはできません。
不要な枝葉をそぎ落としつつ、必要な幹を太らせ、花を開かせるからこそ、作品の質を高めて完成されます。
この枝がついていない、というのは、本来ナンセンスなことです。
その上で、それでも「描かれなかったもの」が気になるのです。
なお、これは今「ゲ謎」が論評される際にある程度合意されている(と思われます)部分についての別意見であり、作品そのものに瑕疵がある、とは考えていません。
そう読むならば、この部分はどうなんですか、ということです。
ですので、ただ作品をみてキャラクターを応援したい、画面を楽しみたい、という方に、なんらか意見をするものではありません。

 

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1 都会の始末

龍賀時貞は退治され、哭倉村は崩壊します。村ぐるみで幽霊族を使って悪いことをしていたので、物語として当然の帰結かもしれません。
ただ、冒頭ででてくる水木が勤めている血液銀行のその後に触れられることはありません。地方の悪行のバックに中央の仕組みもあった、そういう仕組みを見事に描いているのだ、という評をみるとき、その通りではあるのですが、それであれば、それらが倒される/しぶとく生き残る、にしてもひとこと触れられていることが望ましいのではないでしょうか。
この点について、難しいのは、「ゲ謎」だけではなく、ほかの因習村作品でも、多くは因習村としての決着にとどまっており、最終的な収奪先である都会の処断はせいぜい「都会側の関係者」にとどまっています。
「ゲ謎」では公式サイトのキャラクターに血液銀行の関係者は名前があがっておらず、強いて言えば龍賀克典の死がそれにあたるかもしれません。せいぜいその程度です。

 

2 終わっていない太平洋戦争

虐げられた多くの者たちの無念をメタファーとして引き受ける狂骨は最終的には全て祓われ、「希望」の「未来」に浄化されていきます。

1956年7月17日、政府が経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言したときには、水木のような従軍経験者・国内での空襲体験者など様々な形で戦争被害の当事者が、まだ様々な苦しみを負っており、「そうは言ってもまだ戦争の余波は生活のあちこちに残っている」ということは明白であったでしょう。

2023年は戦後78年、終戦前に存命だった方も少なくなり、さすがに「戦後」ではなく、「戦争を知らない子どもたち」(1971年にレコードが発売されたフォークソング)の世代が親・祖父母となっている時代です。しかし「戦争を知らない子どもたち」が大阪万博(1970年)にうたわれた際も歌詞を書いた北山修は「ぼくらは戦争を知らない子どもたちと自分のことを呼ぶことができます。ですが完全に戦争を知らないと言えない面もあります。よその国では戦争を知っている子どもたちもたくさんいます」と発言しており(1970年大阪万国博ホールにおけるコンサート実況版の音声確認)、戦争当事者か否かということではない「反戦」のメッセージが歌には込められていることが強調されています。

 水木が体験した戦争の悲惨さや人間の醜悪さが、龍賀時貞を退治することで区切りをつけられ、その怨霊たる狂骨たちは誰にも知られないところでゲゲ郎が引受け、水木は記憶を失い、誰も知らないところでひっそりと処理される。あとで継承の問題も取り上げますが、鬼太郎が最後の一体を払うことで全てなくなり、山田が「記録して残すことが大事」として幕をひく。

 水木しげるはずっとずっと憶えていました。ずっと戦場の夢をみていました。それは、どこにも引き継がれず、いなくなれば「記録」だけが残り、怨霊はいなくなるのでしょうか。

その、誰も見ていないかもしれないけれど、見えないかもしれないけれど、残り続けるものを描いていたのが、水木しげるの妖怪であり、鬼太郎です。

また、北山修が、自分たちは戦争を知らないけれど、いま戦争を知っている子どもたちへ及ぼした想像力が、ここにはありません。ミャンマーウクライナ・ロシア、ガザと、虐殺が続くこの現代で。

そして、ほんとうに太平洋戦争の狂骨が令和に残っていないのか、といえば、私はまず沖縄を思い出します。辺野古の問題など、戦中にも悲惨な目にあった沖縄の土地・人々がいまだに戦中戦後から続く問題に現在進行形で悩まされています。

ここにも、水木しげるであれば、おそらく目を向けたであろう「まだ取り残されている人々」に対して、「ゲ謎」は扱いません。作品に「たられば」は野暮ですが、野暮を承知でいえば、時弥の成仏するシーンを描いたとしても、その後に「まだ狂骨は残り続けている」なんなら「生み出され続けている」という描写も可能だったはずです。

 

***

 

戦後から約80年。
私たちはその間も様々な困難・事件に遭遇しています。
不況、交通機関を利用したテロ、いくつもの大きな地震・災害……。
そのたびごとに、被害者に心を寄せ、問題に憤り、回復したり、改善したりしています。
その一方で、私たちはそれらをずっと繰り返し指摘し続けることに熱心ではありません。
場合によっては、少し時間がたっただけで「もう終わったこと」と被害者を責める場面もしばしばです。
そして、楽しいことや凄いコンテンツを味わい、日常を過ごしています。
その足元がどれだけグラグラになっているのかに、気づかない。あるいは、気づかないふりをして「大丈夫」だと思い込もうとしている。
でも、「そうじゃないんだよ」ということ、「見えんけれども おるんだよ」が鬼太郎という作品の中核にあるテーマのひとつで、だからこそ、数多い水木作品の中でも「時代設定を現代に更新し続けても」違和感なく生き生きと楽しめる作品なのです。
鬼太郎がすべてを終わらせ、目玉のおやじもそれを見届け、記者がそれを伝えることを誓う。物語としては理想的な大団円ですが、鬼太郎作品としてはそこで「切り捨ててしまったもの」によって、本質を欠いてしまってはいないでしょうか。
昨日、下記の記事を見てとてもショックを受けました。
東京電力弁護団が福島・浪江で「詳細な個人賠償額」マイク使い読み上げ 「嫌がらせと受け止めるしかない」原告側が抗議文】

www.tokyo-np.co.jp

ここで、悪質なのは配慮を欠く東京電力弁護団です。でも、いま東京で様々な電気を使いながら安穏とした生活を過ごし、映画を見ている私は、この訴訟に継続的な関心を払ってはいませんでした。
日々、国内で、世界であらゆる事件や問題が起きます。そのすべてにコミットすることは原理的に不可能です。
それでも、2011年、私は相当な節電をしながら、電力供給が地方におかれた危険な施設から賄われ、送電されていること、その問題を認識したはず。災害によって、被害を被った人たちに思いを馳せたはず。
さまざまな技術革新で同じだけの機械を動かしていても、消費電力が少なくなっている部分もあるかもしれません。それでも、気候危機の状況を世界的に見れば、私たちは自分たちの狭い国土のなかで贅沢に電気を使い続け、その負荷は地方や世界の弱い立場の人たちに負わせていることに変わりはありません。

何不自由なく映画を都会で楽しむ、そのこと自体が、都会と田舎問題・戦争を描いた映画が大団円で締められることを皮肉にしているようです。

最後にもうひとつ。

 

3 子への継承

鬼太郎映画なので、鬼太郎が活躍して締めなければいけないのかもしれません。
戦後の始末が持ち越され、それを主人公たちが必死の思いと行動で守った未来を象徴する子が始末する、物語としては美しいですが、それでいいのか。

この映画の前半では、後に不幸にも亡くなってしまいますが、少年・時弥に未来の希望が重ねられ、後半ではこれから誕生する子・鬼太郎に未来の希望が託されます。ファイナル予告の締めのキャッチコピーも「そして希望は紡がれる」です。

最近(2023年11月5日)に公開となった、『進撃の巨人』完結編(後半)でも「物語に『継承』という要素がある」ことから、声優さんの実際のお子さんの泣き声を演出として採用したことが話題となりました。

本年末にはヒットアニメ(漫画)『スパイファミリー』も映画化され、家族の絆がクローズアップされています(ただ、この作品は疑似家族を題材にしており、「家族」というかたちへの提議も含んでいます)。

親から子へ継承していくこと、というのは一見とても美しいことのようです。

しかし、近年、毒親や親ガチャといった言葉、また宗教2世の問題、政治家の世襲の問題など、さまざまな「継承」の問題がクローズアップされています。

「継承」は果たして単純な美談なのでしょうか。

『ゲゲゲの謎』のティザービジュアルで、ゲゲ郎と水木は血まみれで、鬼太郎は綺麗なままのものがあります。これを「ゲゲ郎と水木が自分たちで始末をつけて希望ある世界の鬼太郎は綺麗なままとした」という解釈をいくつか見ました。おそらく、そのような意図で描かれていると思われます(ここは製作者の意図は確認できていません)。ただ、実際(作品中)では、ゲゲ郎は大量の怨念・狂骨を引き受けるものの、その残りを鬼太郎が退治している、というのが結末部分で描かれています。継承する、希望を託す、とはやはり子に後始末をさせていくことなのか。はっきりと意図は読み切れないものの、これを戦争・戦後のメタファーとすると、ゲゲ郎が閉ざされた村に対して「重い因果を背負わせたものじゃ」というのも、やがて自らにかえってくる皮肉のようにも思えます。

業と愛情は紙一重です。鬼太郎を希望の子、と見てはいけない、とまでは断言しませんが、無批判に「未来」と「希望」を重ね合わせてしまうのは、先述の戦争に対しての処理や女性に対しての扱いなど、さまざまな問題点含みであることを踏まえると、無邪気に受け取るべきではない、と考えます。

私が「見てみとうなった」未来は、可能なかぎり私たち世代が「ほんとうに」さまざまな問題を未来に持ち越さない未来です。
とはいえ、おそらくそれはとても難しいことなのも理解しています。
やはり、ここでも鬼太郎が終わらせるということが美しすぎるまとめで、現実世界を反映するならば、人間の世界が続く限り、狂骨が生まれ続ける状態を示すべきだったように思います。人間のもつダメさ、その影として妖怪の世界があり、鬼太郎作品は未来も愛され続け、あの冷めた目がじっと私たちを見つめているのでしょう。