小林えみのブログ

本の紹介やその周辺、社会のこと

隣人のために

※以前書いたものだが、はてなブログの仕様をあまりよくわかっておらず「ブログが分かれてしまっていた」ため、もうひとつのブログを閉鎖し、転記公開をする。元記事はkoba-editor.hatenadiary.com というアカウントに2022年8月5日に記載していた。

 

 ベルリン中央駅は多層式で、エントランスは大きな吹き抜けの中に通路が縦横に交差している。その日は、ずっと別行動の斎藤幸平氏、セバスチャン・ブロイ氏とボンに向かう列車で合流をしようと、集合の時間まで一人で構内をぶらぶらしていた。
 ばしゃっと濡れたな、と思ったら、上の通路から「チャイニーズ!」と声が降ってきた。私の足元には透明のカップが転がっていた。意味がわからず、立ち尽くしていたら、近くを通りがかったおばさんが「Are you allright?!」と言いながらこちらに駆け寄ってくれ、上に向かって何かドイツ語で大声をあげていた。「おっけーおっけー」といいつつ、上からカップを投げつけられたこと、差別を受けたのだということを、ゆっくり認識した。
 水も、ほとんどのこっていなかったものなのか、あたまがびしょびしょになるでもなく、またジュースとかだったらべとべとになって大変だったな、とか、たとえばこれが薬品などであれば大事故だったんだろうな、とか考えられたのは相当後になってからだ。
 おばさんは「ドイツ人みんながああではない、ゆるしてね、ポリス行く?」というようなことを話してくれていたけれど「おっけーおっけーあいむふぁいん」ぐらいしかでてこなかった。
 イジメ的なものや日常的な女性差別ではなく、私が今までの人生ではっきりと差別で直接的な攻撃を受けたのは、そのくらいだ。
 カップを落とした人を認識できなかったので(チャイニーズ、の声は男性ではあった)、どういう人かはわからないが、むこうは当然「小林えみ」という個体を認識していたわけではなく、中国出身かどうかを確かめたわけではなく、おおざっぱにボンヤリ歩いてる通りすがりのアジア人を「民族/アジア差別」したのだろう。
 差別にさらされる、ということは、こういう緊張感を日常で負う、ということだ。
 だれが、いつ、「私」ではなく「属性(あるいは属性らしきもの)」に対して攻撃を加えるのかわからない。
 非常に恐ろしいことだ。

 吉祥寺のあるお店が、外国籍への差別的なツイートをした。内容は良くない。ただ、その後、そのお店や周囲を非難するSNS投稿や、お店の評価投稿へ評価を下げるための扇動、店舗前でのスタンディングは、私には行き過ぎたつるし上げだと思った。そういう行動をした人たちの「差別はいけない」という主旨、ここはむしろ私は共感するところだ。そして、そのお店の投稿は認められない。ただ、それを問う方法は「差別がいかにいけないか」をまくしたて、謝罪を要求し続けることだろうか。その方法で、言われた側は「ああ自分が悪かったな、謝りたい」と思えるだろうか。
 お店側は、知人のアドバイスなどにより、過剰な反応を避けるために「反応しない」という対応をとられることになったそうだ。そうせざるを得ないと思う。おそらく、今後も表立ってそうしたことに触れることはなさらないだろう。そうせざるを得ないと思う。こうして、対話の機会は失われる。

 私自身は、差別者ではないのだろうか。子どもの頃、テレビでは、ゲイ男性を茶化したコントが笑いをとっていた。肌を黒く塗ったキャラクターもいた。女性の性的消費も面白おかしく演出されていた。他にもさまざまな事柄があり、昭和は、今からみればずいぶん粗野で差別的な表現にあふれていた。それらを私は普通のこととして受け止めていたように思う。目立って加害行動をした記憶は一応ないけれども、差別的な言動や加害を皆無に生きてきたとは思っていない。
 フェミニズムに関しても、元より関心が高かったわけではない。おかしいな、と感じていても、田嶋陽子氏や上野千鶴子氏のご著作を読みもしなかったし、なんなら「いつも怒っているのはちょっと違うんじゃないか」ぐらいに思っていた。それでも#Metoo運動の前後からフェミニズムの理論や、そうした考えや怒りの大切さにも触れ、末端ながらその運動には関わりたいと感じ、運動をしているというのは今でもおこがましいと思っているけれど、自分なりの行動や参加はしてきた。ただ、来歴としてはそういうものであったから、2020年の国際女性デーで「なりたくなかったあれ」という文章が出た時には、批判すべき点は認識しつつも、そのように認識してしまっていた自分への自戒と今は変わりたいというニュアンスについては共感した。しかし、そのテキストに対する厳しい批判は当然であったし、直接批判を受ける立場となった執筆者の方が矢面になってしまって申し訳ないが、それならば私も批判される対象であったと思う。私はフェミニズムについても、差別についても、世界についても、まだまだ勉強中の人間で、先達を愚かにも軽視したこともあったし、今だって何かをやらかしているかもしれないのだ。
 それでも、そうしたことがないように努力し、批判は真摯に受け止めたい。これは他者である、そうした差別の対象者のためでもあるし、関係のない人も含めた社会全体のため、これからの未来のためでもあり、自分自身のためでもある。
 最近、「あだ名禁止」という教育が話題にあがった。ルールが変わっても本質的に変わるわけではないということがデメリット・批判点としてあげられるが、なかなか本質的な改善だけを推進していくのは難しいことを考えると、形から変わっていくことは必要だろう。子ども達はけろりと楽しそうに「〇〇さん」と呼び合い、時々楽しそうに別の親密な呼び方をする。何がダメかを知った上で、どのように使い分けていくかを彼女たちはのびやかに学んでいるのだろう。親世代、年長者の戸惑いをよそに。

 そして、いま、私はトランスジェンダーの方たちをめぐる差別の問題に向き合おうとしている。これは私たち女性の問題であり、トランスジェンダーを公表している知人たちもいる。2022年8月1日「#トランス差別に反対します/話が平行線ですれ違っている点を、このクラファンを支持する人たちと丁寧に話すことはもう難しいのでしょうか。/トランス女性は女性です。彼女たちはあなたたちを脅かすものではありません。」と作家の藤野可織氏のツイートを引用リツイートする形でツイートをした。このツイートに対し、「女性スペースを守る会」からお声掛けを頂き、私はその討論会に参加する予定だ。
 もとよりこうした問題がたちあがっていることは承知していたけれど、改めてこの話題に反応をしたのは、最近またこの話題を見聞することが多く、周囲の知人からも批判的な意見を直接聞く機会が何度かあったからだ。それは、オリンピックに関してなどの他愛のない話題のなかでさらりと出てきて、さらりと会話は終わった。それは違うよ、ということを一応毎回話すけれど、そうなんだー、程度の反応で、内心がどう考えたのかは、今でもよくわからない。また小林さんはいつものメンドクサイ話をしているなー、ぐらいに思われていたかもしれない。私もその人へ「あなたの発言は差別だ」というような強い言い方はしていないし、できない。差別は止めなければいけないが、一般的に知人とのコミュニケーションにおいて、「ただ突きつける」ということはないだろう。トランスジェンダーは隣人だが、差別を内包している人もまた隣人であり、それは私自身でもあるのだ。

 SNSでは、日々、対立的な話がもちあがっている。どうしても断絶している、加害被害がはっきりしているものをあえて対話する、すべてに応答する必要もないだろう。また、当事者や、それをしたくない人が無理をすべきでもない。ただ繰り返しにしても、何度でも話すこと、話を聞くことはまったく無益、もしくは有害だろうか。
 冒頭のベルリンでのエピソードにもどる。差別は日常の中にあり、不意打ちで鋭く刺さってくる。その時の私は旅行者であり、その後の行程も行き先が限定的であったので、滞在中に強く不安だったということはなかったけれど、これが、居住している空間でずっと攻撃性を感じる状況の不安が続きつづけるのであれば、そのストレスは察するにあまりある。そういう目に合っている人たちが、今でも少なからずいるのだ。
 たとえば私が欧米人の社会で「小林の黄色い肌が気持ち悪いと感じてしまうのだけど」と言われたら、それがいくらその人が私を嫌うようなこと、差別心を意識しない素朴な恐怖だったとしても、差別にあたる。え、そんなの差別なの、とか、いやあ最近はなんでもセクハラパワハラっていわれちゃうよね。マイクロアグレッションと呼ばれる、意図的かを問わず何気なく表れる言動や態度は、新しく出てきたのではなく、昔は当事者が我慢していたことがきちんと認識されてきたことであり、私たちが改めていかねばならないことだ。
 とはいえ、私たちはすべての「更新されていく情報」に追いついていけているだろうか。それは、PCの更新情報のように自動的にアナウンスされインストールされるものではなく、日々、自身で追いかけねばならず、簡単なことではない。私とおそらく同じ主旨でツイートをされた豊崎由美氏の2022年8月1日のツイート「トランス差別は絶対にあってはならない。でも、一方で女性を自認する人たちのプライバシーの侵害を恐れる気持ちも無視してはならない。だから、後者の人たちの望みを一方的に「差別」と決めつけ、対話も拒否する姿勢はおかしい。そんな状況が、トランスの皆さんの明るい未来を生むとは思えない。」に能町みね子氏は「「トランス差別はあってはならない」の次に、トランスの対立概念として「女性を自認する人たち」という表現が来ており、「トランス」の中に「女性を自認する人たち」が包含されないということになっている。この一文自体にトランス全体への排除の意識を感じています。」とツイートで指摘をされた。この指摘は当然であるけれど、個人的には、少し厳しいな、とは感じた。豊崎氏の一番大事な意図は一文目の「トランス差別は絶対にあってはならない。」であり、後段は付け加えるなら、の部分であろう。豊崎氏は私よりも一回り年長であり、より長く「昭和」を生きておられた。色々、情報が追い付かない部分がおありなのではないか。また140字で本当にすべて正しい言葉遣いをすることは難しい。もちろんベースの知識があいまいでなければそういうアヤフヤさも起こらないし、余計な付け加えが前段を損なうこともあるが、その細やかな全てへの情報更新が一様にできることではない、簡単ではないということだ。しかし、豊崎氏も言葉を扱うプロフェッショナルであり、慮って指摘を遠慮する必要はないし、それに対して能町氏がきちんと指摘されることは重要であり、そうした指摘を受けて認識が更新されていくのだと思う。
 言葉を定義していくこと、そのロジックを立てていくことは、とても重要だ。
 しかし、それはそれで権威的でよくなかろうけれども、昔は誌上や手紙など限定的な場で、言葉に責任を負う人たちのあいだで行われていたそうしたやりとりが、今はSNSという誰でも見られる場・意見を言える場で流通することで、一般性を獲得し、それを使っての応酬が広い範囲に及ぶにあたり、ロジックに使われる言葉をつまみ食いした、まとはずれな中傷や乱暴な言葉遣いが至るところで展開されることとなった。それは、差別的な言動を有する側だけではなく、それを指摘する側においても。その事例のひとつが、先述の吉祥寺のエピソードだ。
 そもそもロジックは基本的にある一定の条件や前提が共有されて成り立つものだ。1+1=2も限定された条件においてであり、二進法やブール代数を使えばその答えは異なる。クイズなどでなければ、小学生の算数においては前提を説明せずに「2」としているし、ほぼ一般的にもそれで通じる。ただ、細かいことや違うことはいくらでも言える。私たちは、数字も言葉も、そのようにして通常は情報をやりとりしている。前提をずらしてしまえば、いくらでも結論は変えていけるし、その前提も証された確かな条件でなければ、いくらでも前提確認のための確認のための確認のための……、という議論以前のループを産み、結論を保留にしたまま応酬することだけが成立してしまう。
 私のもとにも女性スペースを守りたい人たちから、「説明ができるかどうか」という問いを受け取っている。ただ、「女性スペースを守りたい」という想い・目的で発信する彼女たちが受け取りたいのは、私の完璧な、論破できないようなトランス擁護のロジックではないだろう。だから、「女性スペースを守る会」でも、もし説明を求められたら、私はトランスを擁護する人たちによる既出の説明をくりかえすだけになる。「ロジック」の話でいえば平行線でしかない。
 では、何を私は対話しにいこうとしているのか。ひとつは、それでも同じロジックを繰り返す必要があるということ。もうひとつに、ただし、それを乱暴な言葉遣いで彼女たちに迫るものではないということ。トランスジェンダーも彼女たちも、等しく同じ隣人であるということ。それは「そんなことをわざわざ言われるつもりなら時間の無駄」と思われる方もおられるだろうし、ただ無駄な行為であるかもしれない。しかし、受け取っている言葉の中には、彼女たちが、自分たちの思いや考えを突然強い言葉で否定されたり、軽んじられてきたことへの不信や切実さを感じる。
 私はSNSで強い言葉を投げつけあうという行為を否定する者であり、違うアプローチをきちんと身をもって証する必要がある。
 繰り返すが、当事者へのヘイトは許されるものではない。しかし、一方で、「女性スペースを守りたい」とする人たちの、それ自体が差別的であったとしても、それを「差別者」と名指して、意地悪な言い回しで揶揄する必要があっただろうか。
 いくつか、私のもとにも、「女性スペースを守りたい」という側の方たちから、「それでも小林はこうだ」「間違っている」という投稿がついている。深読みが一周まわっているなあ、というものもある。一方で、こういう書き方を、トランス擁護者もずいぶん用いている、と思う。どちらがはじめたか、という鶏と卵の話はもう無理だと思う。であれば、そういうやりとりから降りよう、お互い静かに話を聞きあおう、ということは、まだ可能なのではないか。
 ただし、何度でも繰り返すが、当然のこととして、当事者が投げつけられた言葉に我慢すべきであるとか、怒りを抑えるべきだ、ということではない。それはトーンポリシングといって差支えないだろう。怒りが時に乱暴な言葉であることは受け止めなければいけない。そうした当事者に代わって代弁に立つ者もまた必要であるとはいえ、直接的な差別行動(ヘイトデモ等)などへの対抗などの場を除き、代弁者が当事者にならって度を越えた強い言葉を用いることは抑制的であるべきで、分断を深めることに他ならない。また、くどくどしく恐縮だが、ここで想定しているのは一般市民のあいだでの対立においての話であり、公権力へ力のないものたちが強い言葉を投げることも否定しない(ただし公人であっても「〇〇死ね」というような個人への侮蔑中傷はすべきではないと思う)。
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」。イエスが、ファリサイ派ユダヤ教の一派)から、ローマ皇帝に税を納めるべきか否かを問われた際に出した答えだ。これは、税を納めるべきといえば、反ローマの民族主義者たち(イエスの支持者)に失望され、納めなくてよいと言えば、皇帝への反逆罪でイエスを捉える口実にできる問いだった。しかし、イエスの答えは、そのどちらでもなく、原理を二つにわけることで両方を同時に成立させた。また、イエスは当時の「安息日は休むべき」という律法に対し、「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」とお答えになられた。
 私はここに、現在の対立する言説の問題を、直接的にではないが、解決への示唆を見る。まず第一に、ある種の議論は、目論見がすでに設定されているのであれば、そこを直接問いあってもしかたがないということ。そして、ロジックや律法が「人のため」であるべきということ。近年注目のあつまる「ケアの倫理」の、普遍や不偏に寄らない考えの元はここにも見えるように思う。
 私たちは、同じ人間であり、共に脅かされることなく同じ社会で生きたい人同士である。そこにいるのは、善なる私と差別者という悪魔ではなく、どちらもひとしく悪と善を抱える人間である。私たちは、たがいにその可能性を明らかにし、よりよい関係性を築くことができる。
 そして、それはイエスのエピソードとしてはもうひとつ、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」に通ずる。私たちは、ひとしく罪をおかしている。人に石を投げて良い人間はいない(ただし、「これからは、もう罪を犯してはいけない」)。

 人のために、人の社会のために、考え、行動し、自分と考えが異なる人たちとも道をさぐることを私は「対話」と呼びたい。
 そのために、ののしり合いや論破合戦が横行するSNSでの応酬を離れ、私の隣人たちと話すことをしていきたいと思う。